2010年3月31日 (水)

3月31日 アイザック・ニュートン

アイザック・ニュートン 忌日

科学者 物理学者 数学者 練金術師  英国生まれ

生誕  1643年1月4日  没  1727年3月31日   84歳

古典力学を確立し近代物理学の祖となった。
近代科学文明に与えたその影響は計り知れない。
数学において極めて大きな業績を残した。

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父親はニュートンが生まれる3ヶ月前に死去した。
母は3年後に付近の牧師バーナバス・スミスと再婚し、祖母のもとで養育される。
体が小さく内向的で目立たぬ子であった。
1655年12歳 、彼はグラマースクールに入学、下宿先が薬剤師であったことが、ニュートンを化学実験好きにした。
母親が戻ってきた事によりスクールを一時退学、二年後には学校へと復学した。
1661年18歳、叔父がいたケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学した。
大学での講義は当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、自然哲学者の著書を好んで学んだ。
大学3年生の頃から独自の勉強・研究を始めた。
翌年には当時のトップレベルに達していた。
数学講座の初代教授に才能を高く評価され多大な庇護を受ける。
教授との出会いによってニュートンの才能は開花し、22歳で二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと研究を広げた。

ロンドンでペストが大流行し、ケンブリッジ大学も閉鎖され故郷へ戻った
その後2年間故郷で微分積分学と光学、万有引力などの研究に没頭した。
この一年半ほどの間に、彼の主要な業績を発見および証明している。
この期間は「驚異の諸年」「創造的休暇」と呼ばれている。

リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を思いついた、と言う伝記は偽作だと言われている。
ニュートンが万有引力の法則を思いついた動機は、ケプラーの法則である。

1667年24歳で、ケンブリッジ大学の教授となる。
ニュートンとライプニッツがそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。その後、優先権をめぐって熾烈な争いが25年間の長き法廷闘争を行った。
他にも、フラムステード、フック、ホイヘンス などとも熾烈な闘争を繰り返した。

1672年での講義が、後の「光学」の基となる、反射望遠鏡も自作している。
この望遠鏡は評判となり1672年にロンドンの王立協会で会員に選出される。
1687年44歳「プリンキピア」で万有引力の法則と、運動方程式について述べ、古典数学を完成させ、ニュートン力学を創始する。
これにより天体の運動を解明した。
1689年46歳、下院議員になる。政治には興味が薄い為殆ど活動をしなかった。

1696年53歳、かつての教え子の推薦で造幣局長官となる。
造幣局長官の地位に隠れて錬金術の研究を始める。
造幣局に勤めてからは錬金術に没頭し一切の科学的研究を行っていない
晩年のニュートンは、聖書研究・錬金術の実験などに没頭していた。
遺髪から多量の水銀が検出されていて中毒をしていた事がうかがえる。
この為「最後の錬金術師」と呼ばれる事もある。
1703年59歳、王立協会の会長になる。
会長の権限で助勢し、確執していたフックの遺品・実験データ・肖像画などほとんど全てを破棄させた。
1705年62歳ニュートンは爵位を与えられる。
以後1727年84歳で死ぬまで造幣局長官の地位を明け渡さなかった。

ニュートンは今日の科学の基礎に大いに貢献した事は確かである。
虹の七色・力のベクトル合成・ニュートンリング・ニュートン式反射望遠鏡などとても身近に感じる。

反射望遠鏡はニユートンによる発明と思いこんでいたが、実際はスコットランドの数学者ジェームズ・グレゴリーが1663年に論文で発表しており、発明者がニュートンだとする説が誤りである事を知った。

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2010年3月24日 (水)

3月24日 ジョン・ハリソン

ジョン・ハリソン      誕生日・忌日

時計製作者 (クロノメーター)       イギリス生まれ
生誕 1693年3月24日  没  1776年3月24日  83歳

H1

     (  H1  マリン クロノメーター )

木工職人(Carpenter の訳語)の息子として生まれた
6歳の時、天然痘にかかって静養していた折に父親が贈った時計の動きに心を惹かれた。成長すると、父親の仕事を手伝いながら、独学で物理学や機械工学を学んだ。
大工仕事の合間に自力で時計の製作を行っていたが、その時計の性能の良さが評判となり、彼に時計の注文や修理の依頼を頼む者が相次いだ。
このため、時計の仕事だけで生計が立てられるようになった。

1728年から7年をかけていろいろな技術を開発しマリン・クロノメーターH1を製作した。
1761年にH1からの改良機H4を完成した。
ジャマイカ島への航海実験により81日間航行した間に8.1秒遅れただけという正確さが立証された。
1773年には、経度委員会が1714年に賞金をかけた「6週間の航海において、0.5度の誤差で経度を測定する方法」をクリヤーした。

しかし、賞金の支払いを渋っていたので国王に直訴して賞金2万ポンドを受け取る事となった。
1776年3月24日誕生日に83歳の生涯を閉じた。

当時のイギリスは世界で最強の海軍・海運国へと発展していった時期であった。

それには航海において正確な経度情報が非常に重要な数値であった。
因みに、赤道域では観測時間のずれ1分で26.7㎞ (1秒で445メートルのずれ)のズレが生ずる事となる。
目的地へ効率よく到達するには正確な時間を元にした経度測定が重要だったのだ。

時間併用の経度測定方法は第二次大戦終了まで使われていた。

その後はLORAN-C と言うアメリカ開発の電波航法により位置精度を30 - 300m 程まで確定出来た。

今日ではGPSにより位置精度は10メートル(補間なし)以下まで判定出来る。
軍事はもちろん、船舶・自動車・農作業・携帯電話・ランナー・隅々まで浸透している。
只、いつまで直接的に無償(ただ乗り)で使用可能なのだろうか。

Gps

(現在、30基のGPS用 衛星が飛翔している)

せっかく発達してきたGPS技術、悪用された事例が最近有った。

2010年2月1日   北方領土・国後島沖で操業中の日本漁船2隻がロシア国境警備隊のヘリコプターから銃撃された問題で、衛星利用測位システム(GPS)で記録した漁船の航跡が、船内に残っていなかったことが問題になった。

幼稚な事に明らかな領海侵犯の証拠を残さない様に装置を停止しているのだ。
この件に関し証拠隠滅の行為が判明すると、海上保安庁もマスコミも強い処置を取らないで、世間が忘れる事を待っている。

結局黒マグロの規制騒ぎと同様、自制心欠如から自身で問題の種を播いている。
魚類の食材にはお世話になっている、「農業は種を播き育て収穫する」、漁業関係者は網ですくってくるだけ・既得権の主張ばかり、倫理観の低さを感じる。
又、同様の事件を必ず起こすだろう、全関係者の身内びいきによる自業自得の結末だ。

せっかく発達してきたGPS技術 悪用される事は願い下げだ。
アメリカのGPS衛星、機能を不意に止めないとも言えない。
次世代の位置情報システムにも参画を考えなければいけないのではないか。

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2010年3月23日 (火)

3月23日 フォン・ブラウン

ヴェルナー・フォン・ブラウン 

ロケットの開発技術者  ドイツ(旧ポーランド)出身

V1

                 (  V1 ロケット  )

生誕  1912年3月23日  没  1977年6月16日 65歳

父親は食糧農業大臣で貴族の家に生まれた。

子供の時に望遠鏡を与えられ天文学と宇宙分野への関心が育った。

ポーランドが割譲されると、一家はドイツ領へ移住した

物理学と数学が不得意であったロケットに興味を持ち始めると、彼は数学に打ち込み、得意科目にするまで努力した。

1930年にベルリン工科大学に入学。
1934年には、ブラウンのグループは2.4km以上の高度に達するロケットを2基射ち上げることに成功していた。
しかし、民間においてのロケット開発は許可されなくなって来た。
大学院に進み、陸軍兵器局のヴァルター・ドルンベルガーのもとで研究する。
ドルンベルガーが扱っていた固体ロケット試験場の近くで研究を続け、2年後に物理学の博士号を受けた。
ロケット開発を続ける為に、陸軍兵器局で働きナチス党政権下のドイツのためにロケットの製作に当たった。ナチス党員でもあった。
1943年、ヒトラーはV2ロケットを「報復兵器」として使うことを決定。

14ヶ月後、1944年9月にブラウンが開発した最初のV-2がロンドンに着弾した。

戦時下にあっても、フォン・ブラウンが地球を回る軌道ロケットや、月に向かうロケットを建造することについて語ることをやめない為、国家秘密警察に国家反逆罪で逮捕される。
ヒトラーのとりなしによって、ようやくフォン・ブラウンは解放される。

1945年5月にドイツの敗北が確実な状況となり、フォン・ブラウンはスタッフを招集し、アメリカに亡命する準備にかかった。
偽造した書類で列車を盗み出し500人の技術者と亡命先のアメリカ軍を探した。
敗戦と同時に、アメリカ側と連絡が付き米軍はV-2ロケットの部品類を貨車300両分接収し施設を破壊した。
部品類は接収したが技術者のほとんどはロシア側の捕虜となった。
フォン・ブラウンと126人の技術者達は、アメリカ・テキサス州に移管され合衆国で新生活を始める事となった。

1952年、は、ロケットによる宇宙ステーションの概念を発表した。
ディズニー社と宇宙探検に関するテレビ映画の制作に技術監督として参加し、未来の宇宙計画に対し公衆の興味を惹くべく、ディズニー社と仕事を続けた。
1960年、NASAは宇宙飛行センターを新設し、ブラウンと彼の開発チームを兵器廠からNASAに移籍させた。
ブラウンは1960年から1970年まで初代所長を勤めた。

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1960年に就任したジョン・F・ケネディ大統領の指揮下、宇宙飛行士の月行きサターンロケットの開発に着手。
1969年7月開発したサターンVロケットがアポロ11号の搭乗員を打ち上げ、ついに月面踏破の夢を現実した。
1972年6月に宇宙飛行の方針がNASAのものとは違うと感じNASAを辞した。

フェアチャイルド社の副社長に就任、そして米国宇宙協会を創立して振興する活動を行った。
1977年6月16日、バージニア州で没する。65歳。

ドイツ、アメリカと、2国を渡り歩き、自分が望むものを作ることが出来た「ロケット少年」としてはさぞ満足な人生ではなかっただろうか。
時代の流れの中に有って、軍事行為を踏み台に「技術者としての興味」を満足せざるより方法が無かったかも知れないが、周囲の犠牲は大きかったといえるだろう。

V1,V2ロケットによる攻撃はロンドンで死者約2700名 負傷者約6500人だったと記録されている。
同様にベルギーでも600発の着弾犠牲を被っている。

周囲人によるフォン・ブラウンの批評は、誠実であり、並外れた倫理観と正義感を持ち合わせ、チームをまとめる指導力にも優れており、又、音楽に耳を傾け、夢を語り、大胆な発想で数々のアイデアを生み出し、あわれみ深く、人間の尊厳というものを大切にする人物でもあったと言われる。

V2ロケットの設計思想もマッハ3という超音速など本来必要なく、自己の技術的能力を試した様に思える。
マッハ3の為に爆薬の種類は低性能の使用に限られ又信管タイミングが追いつかず地中深くでの爆破作用は効果が低かった、故意に攻撃能力を落とす作為を働かせた様に感じる。
技術者としての倫理観からぎりぎりの下心を働かせた様にも感じる。

但し、ブラウンは生存時期が早すぎても・遅すぎても宇宙への夢を叶える事は出来なかっただろう、不運な時代との巡り逢わせなのだろう。

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2010年3月22日 (月)

3月22日  1997年  ヘール・ボップ彗星が地球に最接近

1997年  ヘール・ボップ彗星が地球に最接近。

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ヘール・ボップ彗星

1997年に非常に明るくなり20世紀で最も広く観測された彗星である。
18ヶ月もの間肉眼で見ることが出来た。
ヘール・ボップ彗星は1995年7月23日にアラン・ヘールとトーマス・ボップの2人のアメリカ人により、太陽から飛び抜けて遠い距離で発見された。
しかし、発見された時から核が50kmと極めて大きい事が解り、過去最大級であると推定された。
1996年の後半に彗星は明るくなってきたが、科学者達はこの彗星が非常に明るくなるという考えに対して慎重だった。
1997年の1月になって再び見えるようになると、光害が進んだ大都市からでも誰でも見えるほど明るくなっていた。

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1997年の春には、地球にあまり接近しなかったにも関わらず、-1等級前後の明るさになり、約3ヶ月もの間肉眼で楽に見える状態が続いた
その後、南半球側に移動してあまり話題にならなくなったが20世紀最大の話題の彗星であった。

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            (池谷 ・ 関 氏)

筆者の彗星に関する思い出 三題
①ヘール・ボップ彗星
 何しろ目視出来た念願の彗星だ。
 1965年 の 池谷・関彗星ブームが終わった頃に天文世界に興味を持ち始め彗星を見損ねてしまった。
30年来の願望がやっと叶った訳である。
しかし、この頃には望遠鏡も所有していなく、双眼鏡のみであったが肉眼でも十分に楽しめた。寒い日に暗い海岸まで移動して眺めた。

② ハレー彗星  1986年に回帰して来たが多くの人々と同様に全く見ることができなかった
 
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③1994年7月シューメーカー・レビー第9彗星、木星に衝突。
  この事件は衝撃的であった。
 まさか惑星に天体が衝突する現象を体感出来るなどとは思ってもみなかった。
 突入時の発光と彗星物質や木星内部大気物質が13000 km にわたり放出されたと考えられるエジェクタなど想像を絶した現象だった。
月面のクレーターを思い起こせば同然に起こりえる現象だとは解っていても、自分の世代に起こった事が信じられなかった。
もしも、地球に落下したら・・・「杞憂」と言う言葉を思い出した。

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2010年3月20日 (土)

3月19日 豊田佐吉

豊田佐吉   誕生日

生誕 1867年3月19日  没 - 1930年(昭和5年)10月30日

日本の実業家、発明家・豊田自動織機製作所・豊田紡織株式会社の創業者。

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     (  内国勧業博覧会  )

父は大工、小学校を卒業後大工となる。
13歳を過ぎた頃より新聞・雑誌を読みふけり、何か成しうる国家的事業は無いかと考慮を重ねる。
18歳の時に一生を通じて発明事業に没頭することに決める。
21歳で、織り機の性能が悪い事を見聞きして、早く沢山織れる織機の改良をしようと決めた。

貧しい大工の父親は反対し、村人は嘲笑する中で、少しの田畑を、ぼつぼつと売り減らして、あてどもない発明につぎ込んでいった。
東京での内国勧業博覧会に上京し、15日間も朝から晩まで最新鋭の機械を眺め続けた。
1890年23歳、「豊田式木製人力織機」を発明・完成させ、初めて特許を取得した。
この織機は生産性が4、5割上昇したという。
1893年 明治26年26歳で結婚。
しかし、開発にのめり込み生活に行き詰まり、妻たみは長男・喜一郎を残して行方知れずとなる。
1897年30歳、日本で最初の動力織機「豊田式木鉄混製動力織機」の発明・完成に成功する。

均一な織布が作れるように成った、しかし輸入された動力織機に比べ、機械スピードは半分にも満たなかったが、価格が数分の一ときわめて安く次々と売れ始める。
三井物産がこの動力織機の価値を認め、援助の手を差し伸べ物産が機械の生産と販売を助け、佐吉はもっぱら織機の技術的改良に力を注いだ。

1906年 明治39年、三井物産の資本も入り豊田式織機会社が設立された。
佐吉は技師長として自動織機を目指した開発を続けた。
1910年明治43年 43歳、自動織機は完成の域にあり販売前に、営業試験をすることを主張したが、利益主義に走る会社経営陣から批判を浴び、ついに辞職を強要させられる。

辞職後直ぐにアメリカとイギリスの織機メーカーを見て回り、海外の自動織機よりも自分の開発したものの方が、速度や故障率の少なさや織布の品質が良い事を確認した。

帰国した佐吉は、金策に奔走して、名古屋市内に織布工場を新設した。
織布の利益で自動織機の開発を続けようとした。
しかし当時の原糸の品質が粗悪で自動機には不向きであった。
そこで自ら高品質の原糸を製造する事とした。
1914年 大正3年 47歳、小規模な紡績工場を始める。
一次大戦が勃発し、好況に恵まれて設備を次々と増設する。
1918年 大正7年、豊田紡織株式会社を設立。

1921年 大正10年、中国・上海に約1万坪の大規模な紡織工場を建てる。
1923年 大正12年、愛知県刈谷に約10万坪の土地を購入し、まず200台の自動織機を据えて実地試験を始めた。
各部の緻密な実地試験により次々に新しい発明考案・改良が加えられていった。
1924年大正13年 57歳、佐吉は遂に、世界最初で最高性能の完全なる「無停止杼換式・豊田G型自動織機」を開発した。
従来の織機の15~20倍以上という画期的な生産性・織物品質も大幅に向上という物であった。

1929年 昭和4年、イギリスのプラット社が来日して、自動織機を見学し特許買い取りの申し入れが有り特許を10万ポンド(現在価値 約数10億円)で譲渡する交渉がまとまった。

佐吉は晩年「これからは自動車工業だ」、立派な自動車が作れなければ世界的に工業国といって威張れぬ」と口癖のように言っていた。
プラット社の特許料を長男・喜一郎に与え、「わしは織機でお国のためにつくした。
お前は自動車を作れ。「自動車を作って国の為につくせ」と言った。

佐吉の自動織機は、欧米の織機を模倣したものではなく、まったく異なった系統から発明されたものであった。

佐吉は技術的基礎知識をほとんど持たずに機械の改良に取り組み始めるが、博覧会などで最新の機械を眺め尽くすなどして知識を吸収していった。
機械そのものを模倣するのではなく、機械要素の知識を積み重ね活用した事が解る。
無知の技術要素を見つけだす事は容易な事ではない、やはり知識として知っていないと前に進めないものなのだ。

Triz

特許とは、膨大な問題解決の事例が載っているハウツー倉庫、これから発明の手法をまとめた物が「TRIZ」と言う手法だ。

使いやすくまとめ直した簡易版を準備中です。
ご期待下さい。

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2010年3月17日 (水)

3月17日 ドップラー

  クリスチャン・ドップラー   忌日

物理学者  ドップラー効果を発見    オーストリア生まれ

生誕    1803年11月29日  没  1853年3月17日 49歳

石工の息子として生まれる。
1829年にウィーン工科大学の数学を学び卒業する。
オーストリア工科大学で4年間、高等数学を教える。
1835年にプラハの国家中等学校で数学や会計学の教授となる。
1842年には技術アカデミーで数学の教授に任命される。

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ここでドップラーは音源と観測者との相対的な速度によって、音の周波数が異なって観測されることを研究した。
発生源が接近する場合には波の振動が詰められて周波数が高くなり、逆に離れる場合は振動が伸ばされて低くなると考えた。
しかし、実際に現象として確認することは出来なかった。

3年後の1845年にオランダ人の化学者が列車のオープン車にトランペット奏者を乗せ、奏者がGの音を吹き続け、それを絶対音感を持った音楽家が聞いて音程が変化する事で証明をした。

1850年にウィーン大学の研究所の実験物理学の教授となる。
1853年49歳、肺の病気の為に死亡。

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(音の速度を超えると音波が圧縮爆発して衝撃波となる)

今日、ドップラー効果は広く使われている。
ボールの速度特定、星雲の移動速度・防犯用進入検知など本当に身近に活用されている。

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2010年3月16日 (火)

3月16日  ゲオルク・オーム

ゲオルク・ジモン・オーム  誕生

物理学者       オームの法則の発見者         ドイツ(バイエルン王国)生まれ

誕生  1789年3月16日  没  1854年7月6日  65歳

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錠前職人の父から7人兄弟の長男として生まれる。
10歳で母親を亡くす。
父親から数学・物理・化学・哲学等を習い知識はハイレベルと成った。
11歳で学校に通い始めるが学校のレベルが低く退学してしまう。
1805年16歳でエアランゲン大学に入学するが、ダンス・アイススケート・ビリヤードに熱中し遊びほうけ、休学されられる。
1806年スイスの学校の数学教師として赴任。
1809年ハイデルベルグ大学で家庭教師をしながら数学の研究を始める。
1811年エアランゲン大学に復学10月に博士号を取得し卒業する。

大学で一年半程講師をした後、政府の要請で数学と物理学の学校教師をする。
1813年待遇の良い学校に移る。
1817年28歳ケルン理工科学校の上級講師となり、物理学を教える。
大学のよく整った物理実験室を用いて、本格的に物理の実験研究を始める。
1820年31歳 エルステッドの電磁気現象の発見に関心を持ち、電磁気学の実験を始める。
ガルヴァーニ電池を使用して電流と電圧の関係を数学的に取扱う研究に着手。
(*ガルヴァーニ電池は1800年に発明されたばかりであった、これにより数々の電気実験が安定的に行える様になった)
1825年36歳、高水準の研究には大学教授のポストが必要であると考え、実験研究の結果を系統的に整理。
最初の論文を発表する。「ホームの法則」を含む物であった。
1926年に直流電気の働きを説明する法則を提案しました。
1827年に1年間の休暇を取り、研究成果を「数学的に取扱ったガルヴァーニ電池」として出版する。
しかし、これらの成果は認められず無視され続けられる。

14年後
1841年に英国王位協会からコプリー・メダルを受け科学業績を認められる。
( *  今日まで続く最も古い賞である 例 1753年:ベンジャミン・フランクリン/1781年:ウィリアム・ハーシェルなど)
これにより王位協会のフェローとなる。
1849年この事もあり、念願のミュンヒェン大学の招請教授に任命される。
1852年62歳、ミュンヘン大学の実験物理の教授となった。
1854年 死亡
1881年 彼の業績を讃えて国際電気会議は電気抵抗の標準単位を「Ωオーム(Ohm)」と称することを決めた。

オームが法則を発見した由来はフーリエの熱伝導の関する研究をモデルにしたと言われる。
電気の挙動を熱に置き換え、「温度差」による熱の伝わる「早さ」と伝える「面積・長さ」から、温度差→電圧差 早さ→電流 断面積・長さ→抵抗値と考えた。
  これにより抵抗(R)=電圧(E)÷電流(I)と類推して実験を繰り返した。
そして「オームの法則」を確信したと言う。

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今日オームの法則の説明に水流を用いて視覚的・感覚的に説明する事もある。
熱・電気・水のエネルギーの移動だからどれでも同じ現象を起こしている事が判る。

Trizmegane

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2010年3月14日 (日)

3月14日 ホイットニー 綿繰り機の特許を取得

1794年 - イーライ・ホイットニーが綿繰り機の特許を取得する。

イーライ・ホイットニー
                               
アメリカの発明家  綿繰り機 横フライス盤を発明 限界ゲージによる公差管理による加工の標準化を始めた。

生誕 1765年12月8日  没  1825年1月8日  59歳

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ホイットニーは機械的な作業に幼い時から関心を持っていた。
実際、12歳の時にバイオリンを製作している。
1792年 イエール大学を28歳で卒業。
1794年 綿繰り機を発明する。
1799年に、銃の国産化の為アメリカ軍から10000丁あまりの製造の依頼を受ける
  銃製造の為の専用の工作機械を製作する。
  限界ゲージによる公差管理による加工の標準化を始め、大量生産の基礎技術を固めた。
1818年 横フライス盤を発明し工業品の生産性を高めた。

綿繰り機は、綿花から種子を取り除く機械ですが、その発明の時まで、種取りは非常に労働集約的で手のかかる仕事だった。
人手が架かりあまり収益が上がらない為に、アメリカ南部では綿花の殖産は衰退傾向にあった。
ホイットニーは木綿栽培の種取り行程の非合理性に興味を持ち機械を作る事を思いついた。
ヒントは、猫が「縦縞網越し」に鶏を「爪でひっかこうとして羽根をむしった」のを観て触発され改良したと記録されている。

この綿毛だけを回収する「綿繰り機」は大変に高能率で従来の手による選別に比べて50人分の加工性能があったと記録される。

特許は出願したが模倣品に市場を荒らされ経済的には得るところがなかった。

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      (綿繰り機の 特許)

しかし、綿繰り機の効果は絶大で、綿花栽培が儲かる事が判り、発明前の輸出高18万ポンドから10年後には220倍の4100万ポンドへと膨張した。
この為に労働力として黒人奴隷がさらに必要となり、後の奴隷解放運動・南北戦争の火種となった。

オールドブラックジョーの歌詞の中にも綿畑で働いている様子が歌われている・・・・
Gone are the days when my heart was young and gay,
Gone are my friends from the cotton fields away,・・・・・

南北政争では62万人が死亡している。
果たして、発明は人々を幸せにしたのだろうか ?

発明による経済的メリットは無かったが、発明家としての名声が高まり銃器の大量製造の依頼を受ける事となった。
当時はイギリスやフランスと戦争状態にありアメリカには大量の銃が必要だったのです。
しかし、アメリカには銃を作る鍛冶屋は少なく工業的に多量に作る手段は無かったのです。
そこで発明家のホイットニーに声がかかった訳です。
彼は多量に作る為にまず専用の工作機械を作り、作る部品を同一寸法に仕上げる為にゲージと言う素人でも扱える測定具を用い部品を合格選別したのです。
このシステムは当時画期的で、10組の銃をばらしどの部品と組み合わせても10台の銃が機能することを見せつけアピールしたのです。

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      (横フライス盤)

この管理システムはこの後アメリカの工業力を飛躍的に強くして、農業機械・ミシン・タイプライター・レジスターなど大量生産方式の基礎を固める事となった。

よってアメリカでトーマスエジソン・アレクサンダーグラハムベル・イーライホイットニーが最も有名な発明家に挙げられるのです。

今日米国はシステム構築力が強いと言われているがこの時代からその傾向は始まっていたと言えるだろう。

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3月13日 ハーシェルにより天王星が発見される

1781年 - ウィリアム・ハーシェル、天王星を発見

ウィリアム・ハーシェル
音楽家 天文学者 望遠鏡製作者

ドイツ生まれのユダヤ人 ドイツ名  ヴィルヘルム・ヘルシェル
生誕  1738年11月15日  没  1822年8月25日 83歳

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近衛連隊の楽団員の父より10人兄弟の4番目として生まれる。
15歳で父と同じ楽団員となりオーボエ奏者となる。
19歳でイギリスに赴任、以後ウィリアム・ハーシェルと名乗る。
イギリスでは音楽教師・楽団長・作曲家などで活躍する。
彼は43歳まで音楽家で、その後で天文学者として天王星などを発見する。
月面の山の高さ測定、二重星カタログ作り、土星の衛星発見・太陽系の宇宙での位置付け・天の川の大きさ類推など天文観測初期に大きな成果を残した。

又、太陽光の分光分析時に赤色部から外れた位置で温度計の上昇点がある事に気づき何か不明なれど、特別な波長がある事を見つけ、赤外線の存在を予言した。

天体観測に必要な望遠鏡を当初は自作していたが、製作依頼も多く生涯に400台もの望遠鏡を製作・販売している。
現存している物が20点近く有る。

音楽家が何故天文学者になったか自伝の中で述べられている。

作曲の勉強の為、音階あるいは和音がどういう仕組みかを研究する本を読んだ。
その著者は天文学者で、数学を使って説明していたと言う。
そのことから、数学に興味を持ち又その著者の「光学」の別本にも興味を持って読み込んだと述べている。
そして、望遠鏡の作り方・天文学に興味を持ち自身で望遠鏡を作り出したという訳だ。
もっとよく見える様にと製作望遠鏡の大型化が進み、ついには当時世界最大の反射式望遠鏡「鏡径126センチ・焦点距離12メートル」の望遠鏡まで製作した。

妹も女性の天文学者と成り、又息子も天文学者となり観測の出来なかった南半球での測定結果を多く残している天文学者ファミリーだった。

ハーシェルのように、仕事の領域を全く変えてしまう人は珍しい。
しかも、大変に好奇心が強く又徹底的にその分野を極め実績を残した努力家だ。
創造性の強かった過去の偉人の特色に「好奇心が強い」が挙げられるが、自伝からまさに読み取れる。

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文楽の演目「菅原伝授手習鑑」 の中で「上根(優れた素質)」と「稽古好き」と「好き」のうち 芸道を最後に極めるのは「「好き」者」だと言っている。

まさにハーシェルは好きが高じて天文の世界にのめり込んでいったのだろうと推察出来る。
いかに楽しく・充実した毎日だったのだろう !

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2010年3月10日 (水)

3月10日 御木本 幸吉

   御木本幸吉   誕生

真珠養殖法を開発  真珠王と呼ばれる 事業家

生誕 1858年3月10日  没  1954年(昭和29年)9月21日 96歳

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三重県鳥羽市でうどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。
正規の教育は受けていない
うどん屋では身代を築くのは無理と分かって、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。
1876年(明治9年)18歳、の 青物商から米穀商に転換。
1878年(明治11年)20歳、家督を相続、海産物商人へと再転身した。
1888年(明治21年) 全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた
幸吉は同年9月に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。
発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、アコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖で採算的に果たされる事業を計画。
1890年(明治23年)32歳、学術的には養殖が可能なことを学ぶ。
同年、神明浦と相島(現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した
1893年(明治26年)7月、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。
1896年(明治29年)38歳、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩を踏み出す。
1916年(大正5年)54歳、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。
完全なる球形真珠を作り事が出来る様になった。
1918年(大正7年)56歳、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった

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1924年(大正13年)62歳、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。
世界が認める宝石となった。

幸吉は、養殖を成功させる為に、膨大な研究・試験を行った。
アコヤ貝の増殖・真珠をつくる為の方法・海水温や赤潮・天敵などの研究。
これらの研究は後の日本の真珠養殖事業にとって大変大きな成果となった。

幸吉は真珠については、世界一の発明家だと自負していた。
「私達が考え出したアイデアは、全部で三万件ほど。しかし、その中で本当に役に立ったアイデアは十数件だと言った。」
問題を考え方法を探り実験して又考え・実験しての繰り返しだった。
いかに大きな課題に挑戦したかうかがい知れる。

養殖にほぼ成功してからは真珠の品質向上・宣伝・広告・海外での営業所作りなど事業家としても新発想を持って取り組み成果を上げていった。
日本の十代発明家として挙げられている。

幸吉が真珠作りの為に出したアイデアの数が3万と言うが、数値を聞いてエジソンの電球開発を思い出した。

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(エ゛ジソンはスワン電球を改良して実用化に持っていった)

エジソンは電球の改良で、長寿命化のフィラメント材料を選び出す為に、6,000種類の素材を集めテストして、竹が良いと目途が付くと更に竹材を1,200種類集めた話だ。
実験用の素材も技術知識も数が多い事はとても大切で必要だ、「数が質に変わる」好例だろう。

もちろん開発に取り組む情熱や周囲の協力も必要だ。

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