3月31日 アイザック・ニュートン
アイザック・ニュートン 忌日
科学者 物理学者 数学者 練金術師 英国生まれ
生誕 1643年1月4日 没 1727年3月31日 84歳
古典力学を確立し近代物理学の祖となった。
近代科学文明に与えたその影響は計り知れない。
数学において極めて大きな業績を残した。
父親はニュートンが生まれる3ヶ月前に死去した。
母は3年後に付近の牧師バーナバス・スミスと再婚し、祖母のもとで養育される。
体が小さく内向的で目立たぬ子であった。
1655年12歳 、彼はグラマースクールに入学、下宿先が薬剤師であったことが、ニュートンを化学実験好きにした。
母親が戻ってきた事によりスクールを一時退学、二年後には学校へと復学した。
1661年18歳、叔父がいたケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学した。
大学での講義は当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、自然哲学者の著書を好んで学んだ。
大学3年生の頃から独自の勉強・研究を始めた。
翌年には当時のトップレベルに達していた。
数学講座の初代教授に才能を高く評価され多大な庇護を受ける。
教授との出会いによってニュートンの才能は開花し、22歳で二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと研究を広げた。
ロンドンでペストが大流行し、ケンブリッジ大学も閉鎖され故郷へ戻った
その後2年間故郷で微分積分学と光学、万有引力などの研究に没頭した。
この一年半ほどの間に、彼の主要な業績を発見および証明している。
この期間は「驚異の諸年」「創造的休暇」と呼ばれている。
リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を思いついた、と言う伝記は偽作だと言われている。
ニュートンが万有引力の法則を思いついた動機は、ケプラーの法則である。
1667年24歳で、ケンブリッジ大学の教授となる。
ニュートンとライプニッツがそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。その後、優先権をめぐって熾烈な争いが25年間の長き法廷闘争を行った。
他にも、フラムステード、フック、ホイヘンス などとも熾烈な闘争を繰り返した。
1672年での講義が、後の「光学」の基となる、反射望遠鏡も自作している。
この望遠鏡は評判となり1672年にロンドンの王立協会で会員に選出される。
1687年44歳「プリンキピア」で万有引力の法則と、運動方程式について述べ、古典数学を完成させ、ニュートン力学を創始する。
これにより天体の運動を解明した。
1689年46歳、下院議員になる。政治には興味が薄い為殆ど活動をしなかった。
1696年53歳、かつての教え子の推薦で造幣局長官となる。
造幣局長官の地位に隠れて錬金術の研究を始める。
造幣局に勤めてからは錬金術に没頭し一切の科学的研究を行っていない
晩年のニュートンは、聖書研究・錬金術の実験などに没頭していた。
遺髪から多量の水銀が検出されていて中毒をしていた事がうかがえる。
この為「最後の錬金術師」と呼ばれる事もある。
1703年59歳、王立協会の会長になる。
会長の権限で助勢し、確執していたフックの遺品・実験データ・肖像画などほとんど全てを破棄させた。
1705年62歳ニュートンは爵位を与えられる。
以後1727年84歳で死ぬまで造幣局長官の地位を明け渡さなかった。
ニュートンは今日の科学の基礎に大いに貢献した事は確かである。
虹の七色・力のベクトル合成・ニュートンリング・ニュートン式反射望遠鏡などとても身近に感じる。
反射望遠鏡はニユートンによる発明と思いこんでいたが、実際はスコットランドの数学者ジェームズ・グレゴリーが1663年に論文で発表しており、発明者がニュートンだとする説が誤りである事を知った。
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